ふくろうです。
ふとさ、思い出したことがあってさ、昔何人かの女優さんと会ったんだよね。
麻雀仲間の女優さんもいたし、日本酒とウィスキー派だった自分にすっかりアサヒのドライを教え込んだ女優さんもいたんだけどさ。
俺はすっかりそれにはまってしまって、1日3リッターや5リッター飲む人間になっちまったんだけどさ。
まぁ、そのなかで、沖縄にいる時にある女優さんが来て、カヌー乗ったりして色々遊んだんだよね。
ニモの映画の時だったかな?「ニモがいるねー」沖縄の海は綺麗だから真下にいるような感じ。でも実際は何十mも深いんだけど。
その時ふと女優さんが独り言なんだろうけどこう言ったんだ。
「自分は女優ではあるんだけど表現者っていう言葉を使って言うとね。表現するっていうことの限界を今感じだしてきてね。自分というものを高めないと、例えば色んな経験とか、色んなものを感じたりして高めていってこそ表現者としていろんな表現ができると思っていた。ところがそれに限界がきたみたい。私はこれからどうすればいいのか。演じられない」っていう悩みが出てきた。
まー、ふくろうさんはまだ若くて当時40代後半の話だよね。
どうアドバイスすればいいんだろう?って思って考えて彼女に言ったのは「表現の限界っていうのは頭の限界、肉体の限界だよ。これ以上の表現をするんであれば魂を震わせないといけない」って言ったんだよ俺。
でね、今この話をしたのは以前の記事で、「次の段階に行く時に魂の震えが大事なんだ」って言っている自分がいた。
記事→第一段階「意思で世の中出来上がっている」から第二段階「魂の震え」
「震え?」って思って表に行って空を見上げながら「なんかこれ聞いたことあるなー。震えってなー」って。そのときに昔のことを思い出したんだ。
40歳後半で「魂の震え」って言葉を使っていたんだよな。
人っていうのはある段階を過ぎたときに魂に呼びかけないといけない。
そして魂に呼びかける時が、自分の肉体や現実からの脱皮なのだろうって。
どうもその時に言ったみたいなんだよね。
確かにその女優さんのその後の演技は変わった。
その人は主役をやるような人じゃないんだけど、それでも重要な役の人だよね。
ああいうわき役がいるから主役が成り立っていくわけでね。
その他にも何人かの女優さんに会って、一人は主役をやっていたりするが、だいたいはわき役の人が多かったけど、ドラマや映画を見て感じたのは主役っていうのはわき役が素晴らしいから主役が光るんだなってよーく分かってよ。
そういう面では自分は芸術家でもなんでもないけど、本当にいい人に巡り合ったなって思うよね。
こんな素人が芸の世界にちょっと足を踏み入れるのを許されたって自分自身羨ましいなって思うね。
それから何年か過ぎて、次に自分の前に現れてきたのは音楽家だよね。
作曲家、歌い手、来る人来る人、歌うたいが多い。
しまいには子供を連れて会いに来てくれた娘がいるんだけど、「今まで歌うたっていたけど、子供が出来たきっかけにやめることにしたんだ」って、「お前歌うたってたんだ!?」って思った。
まー、それも懐かしい思い出。そんな感じで音楽の世界へ入ることになるんだけど、音楽の世界ではそれぞれまた悩んで悩んで「これは俺の世界ではないわなー」って思う。
我々素人には分からない世界だ。
結局自分は分からないけれど、音楽家に自分がアドバイスをするのなら、「海じゃないかな?」って言ったよね。
自分が色々な相談に答える時、自分で答えるようにしたんだよ。
自分から出てくる答えをそのまんま伝えるだけ。
後から思い返すと自分は面白いこといったんだなーって思った。
音楽家は海の音を聞くべきだ。
海の中というのはそこからものは誕生するわけで、音楽は生まれるもの、だから大地ではなく海に行きなさいっていうことだったんだよ。
その音が本物の魂を揺り動かす音なんだよ。
地上にいると惑わされてしまうんだ。
海の中というのは確かに水だと思うんだけど、水のすぐ下は地上だから。
結局本物の地上の音を聞く形になるんだよね。
そういうことを教えたりしていたよな。
そして本当に作曲家の方は潜ってくれて、「あーこれかー」って本人は言っていたね。
海に潜った後の曲を聞いたら、今まで聞いた事のない変わった曲なんだよね。
それが曲じゃないんだよ。ある音を5分間くらいずーっと流すんだよね。
でもその音は微妙に揺れるんだよ。
多分彼女は海の中のそれを表現したかったんだろうと思うんだけどね。
そういう面では沖縄の古典音楽を一度聴いてみて欲しいんだけど、ひとつの音が長いんだよね。
今の西洋から流れてきた、クラシックから流れてきた音ってブチブチ切るよね。
でも本来日本が持っていた音楽って長いんだよね。
長い音を繋ぎ合わせていく形になるんだけど、これもクラシックによって音をブツブツ切られたてしまった。
自分が歌い手や作曲家に言いたかったのはそこの部分。
本当の音楽っていうのは「長く伸ばす、切るもんじゃない」っていうのが自分のなかにあった。
未だにそれは間違っていなかったと思う。
自分が未だに分からないのがパイプオルガン。
あれは何となく悪のイメージがあるんだけど、自分が聴くとどうもパイプオルガンって音を切らない音楽にもっていける楽器のような気がするんだよね。
そういう面では今のところ最高峰なのかなー?と。
そんな色々な出会いがあって、そんな助言を自分はしながら沖縄編は終わったんだけどさ。
あの時の感覚、あの時の自分の助言は正しかったのか?正しくなかったのか?いつも自分に問いかけているんだけど、還暦過ぎて穏やかな時を迎えられたんだけど、やっぱり間違えたことを人に教えてなかったなと思う。
客観的にみると、当時の自分に正しいことをやっていると褒めてやりたいな。
だから、みなさんに言いたいのが「自分は音楽が分からない、芸術が分からない」って言う人がいるが、それは分かんないんじゃないと思うよ。
ただ、評論家や専門家に負けているって思ているだけ。
「自分には違う感覚に聞こえるんだけどなー?」って人たちはいると思う。
「でも専門家の人が言うから、自分は芸術が分からないのかな?」っていうふうに思い込まされているだけじゃないの?
ふくろうさんみたいに「バカやろー!専門家なんてたいしたことないよ!」って自分に言いきかせて、自分の感性を大切にしてきた。
相手がプロでも「自分の感じたものはこうだ!」って。相手が女優でも音楽家でもどんどん自分の感じたことをしゃべる。
「じゃあ、あなたは何のプロ?」って言われそう。
はっきり言いましょう。
俺は人生のプロです!
人生のプロとしてずっと俺は生きてきたけれど、その中で人に負けないくらい考え、悩み、感じて、そうやって俺は生きてきた。
自分の人生にとっても自信をもっている。
その中には悪いこともあった。
ヤクザとも戦ったし、暴れたし。
今ばらしちゃったら、手錠はめられることもやったよ。
それは人を傷つける事じゃないよ。金のことだよ。
それでバレたら捕まるだろうなっていうこともやった。
それが嫌だから、大都会東京から去ったんだよね。
だからさ、俺みなさんに言いたいのは、「もっと自分の感性に自信をもってよ」ってこと。
他人は「この音楽は素晴らしいね」って言っても自分はちっともそう思わないってことあるでしょ。
「それはみんなそれぞれの好みなんだよ」って言い方するが、俺は違うと思う。
好みってお前分かってんのか?って言いたい。
「人は良いっていうが、私にはいい絵には見えない」っていう感性がとっても大切だと思う。
専門家って金が絡んでいるからさ。自分が良いっていう評価を与えると莫大な金が入ってくるから。
絵画なんて、そんな世界だから。
専門家が良いと言ったら、それが芸術になる。
千利休の時の話だよ。
わびさびで、千利休が貧乏な農村に行った時に、一軒の農家にしぶい竹が置いてあった。
それを見たときに彼は想像した。
これに一輪の花をポンといけると素晴らしい花瓶になると。
竹は天然でつやつやになっている。これは素晴らしいと言って、今のその竹が一本何百万円になっている。
みんなにとっては火にくべちゃうくらいの竹が。これが専門家だよ。
でも結局それだって千利休は自分の感性に自信をもったっていうだけでしょ。
人は何と言おうが俺は素晴らしいと思う。それが芸術になった。
皆さんだって芸術家のはず。
もっと自分の感性に自信を持ちなさい。
なんかね、俺はよく「上から目線で物言わないで」って何回も言われたことあるが、上から目線でもの言わせてもらいますよ。
あなた方があまりにも自信なさすぎ、自分を自分で落とし過ぎ、だからこっち側は上から目線になるんだよ。
「バカやろー!人間ってすげーんだよ!みんなひとりひとりが芸術家で作曲家。神様、創造主なんだ。女であり、男であり、おばあちゃんであり、おじいちゃんである」
そこの部分にみんな自信がなかっただけなんだよね。
だから俺は叫びたいよ。「バカもん!自分に自信をもて!」って。
「あんたの感覚は誰も真似できない。それがあなたなんだ」
っていうところで自信をもってこれからも日々生きていって下さいよ。
お願いします。たわごとでした。