危うく魂が吸われそうになった。。。

帰郷シリーズ

ふくろうです。

だいたい言いたいことはブログで言わせてもらいました。

とにかく、自分の意思というもの、意識というものをしっかりと理解して、自分自身が大切なんだっていうことを、よく理解してください。

昨日、自分の身の上に変な事が起きて、危うく寝ている間に自分の魂が丸ごと抜けちゃうところだったんです。

幽体離脱ではないです。魂を吸われそうになりました。

それをマリも含めてどうも2人でなんとか阻止した状態になりました。

ただ、この「魂が持っていかれるー!」っていう感覚は決して悪い感覚はなく、元のレムリアの袋へ帰らされる状態でした。

俺は「まだ帰りたくない!」っていう感じだったんです。「まだやることがある!マリ!手を握ってれー!」ってしきりに叫んでいた。

そして、翌朝その話をマリにしたら、「実は夜中ふくろうさんはうなされていたよ。いつもよりうなされている時間が長くて、酷かったから、何度も名前を叫んだりゆすったりして起こそうとしたんだよ。久しぶりにお化けが出てきたのかなー?と思って。」って話を聞いたときに、やっぱりそうだったんだなと思った。

自分は「助けてくれー!」と叫んで、自分一人では到底無理。強力な力だったので。

よく「朝起きたらベッドから起きてこない。見に行ったら死んでいた」なんて話あるでしょ?

あれは、寝ている間に魂が抜けて、心臓がきゅっと止まった人たちなんだよ。

だから何も苦しまず、寝たまま行けるから楽だよね。

ただ、今この状況で俺がレムリアの袋に帰ってしまうと、残されたマリや子供たちが誰も頼る人いない中の海外生活はかなり危ない。

ここは女子供だけだと分かると、泥棒や強盗や普通の現地の人たちも余計になめてかかってくるから、心配なんだよね。

せめて息子が高校生くらいになってから、俺はレムリアの袋に帰りたい。

今感じるのはどうも今魂を抜かされている人多くないかな?と。

自分のパラグアイでの知り合いでも、人間が変わっちゃったんじゃない?って人が現れているし、気にかかっていた人たちがいたが、1年近くその人たちを見ることがないんですよ。

家を知っているんで、たまに通ったりして車はあるが、明らかに人が住んでいる気配がなく、人影もない。

その人たちは複数いるのだが、その複数の誰にも会わない。

「なんなんだろうねー?」って奥さんと話しているんだけれど、薄っすらと「上がっちゃったかな?連れて行かれちゃったかな?」って感じはありますよね。

ま、この辺はそれぞれの感じ方に任せますよ。

また自分がこちゃこちゃ言うと訳分らなくなっちゃうと思うので、ここは情報だけ言って、「多分こうなんじゃない?」ってそれぞれで理解していけばいいと思います。

たぶん自分のブログを読んでいる方はだいたいもう気づいている人が結構いらっしゃると思うんです。

そのために伝えていこうと思って今まで言っていたわけですが、自分が感じるのは「かなりの人が理解し出しているな」って感じる。

でもそれぞれにおいて、表現方法も受け取り方も一人一人変わってくることは当たり前だと理解してください。

ツイートなどをちらっと見させてもらっているが、少しも間違えていないと思います。

それでいいと思います。

もうここまで来たら、皆がそれぞれ考えていることがイメージになって出てきていると思うので、それでいいです。

ひとりひとりが世界を創っているので、人と自分の見えている世界は違って当たり前。

だから、できるだけ見ているものが近い者たちで共に暮らしたいよねっていうのがこれからの理想型だと思う。

また、そうなっていく世界であると思う。

それが波長が合うっていう言い方になるが、導かれて集まってきて、将来的には村単位で昔に戻っていく状態だと思う。

我々も精神状態が上がるので、物欲もなくなるために「経済っていう大きな魔物もいらない」っていう状態になっていくと思う。

お金も必要ない世界になっていくと思うし。

そこまで自分が精神的にいったら、身体は半物質化してしまう自分になっちゃうでしょうね。

いわゆる、反物質っていうのはね。半分物質で半分がエネルギー状態になるっていうようなことなんですが、それは学校のお勉強をすると、なかなか半物質っていう言い方をしているんですが、もっと分かりやすく言えば、自分が本当は魂体であるということを理解したっていう意味なんですよね。

今までの状態って言うのは、脳の思考だけで自分たちは生きていると思っていた。

そして、脳が自分であり、脳が考えて行動していたんだと、これが我々の今までの在り方でしたよね。

でも、だんだん実は自分の本体は魂なんだ。これは日本人であれば何となく分かっているはずだけれども、決して定かではなかった。今はそれを感じられる人が多くなってきた。

半物質化とは魂が落ち着いて、魂から脳に指令が行っていたんだということを理解すると、我々の身体はあってないようなものなんだな、って分かる。そういう意味においての半物質化です。

ちなみに、若干脱線しますが、よく守護霊っていいますよね。

でも守護霊と言うのは自分自身ですからね。

「守護霊様にありがとう」と感謝しないといけない。それは自分自身にありがといと言うという事なんですね。

半物質化と同じように守護霊っていう言い方をしないと、今までの我々のレベルって低いわけです。

「自分自身の魂が何個もあって、自分が自分を助けるんだ」って理屈を言っても皆理解できないから、守護霊という言い方をしているんです。

そういう意味においては、お釈迦様で仏教の話になっていくのかっていうと、その時の人間レベルに応じて分かりやすく説明するためにってなるんですが、お釈迦様の場合は仏教をやりたくて開いたわけじゃないくて、「単純にこの世は無だよ、絶えず矛盾を感じるんだよ。実は世の中ないんだよ」っていう答えを出してあげたかったんだろう。

孔子の儒教と同じで、何百年も経ってから、「お釈迦様がこれを食べていいって言った」「いや、言ってない」それだけで、大乗仏教と小乗仏教に分かれた。非常にレベルの低い話です。

仏教自体は決して悪いものではないけれど、聖書よりはるかにいいものだと思う。聖書は洗脳の為の教科書ですから、宗教にもならない本ですね。

でも仏教は人の生き方、この世の仕組みとかそういうものを教えていった。これからこの何千年の間そういう世界が訪れるよっていう予言書みたいなものだよね。それが仏教だと思う。

それをくそ坊主がお体裁よくやって、金もうけして、自分たちの地位も上がるから、お釈迦様を頂点にたてて上手い事利用したんだわね。

その中でも本当のお坊さんはたくさんいたよ。

本来のお釈迦様の言っていることを我々はもっと掘り下げて身体で体現しないといけないんだって、一生懸命今の我々と同じように、真実とは何なんだってお坊さんはたくさんいた。

そういう面ではキリスト教とはレベルが全然違う。宗教にもならない。

イエスがいい餌食になっちゃったっていうか、かわいそうな人ですよね。彼は高次元の人間だから、真理ではなく、むしろこの世の中を憂えたんですね。

「何とか助けてやりたい」と。ところが彼は理論派だから、人間は裏がたくさんあるのが人間なんだが、彼はそれに気づかない。

彼は自分の理論に負けた人間。十字架にかけられたのはしょうがない。定めだな。

キリストに関していうのなら、今のコロナの世の中でマイクの拡声器持って街中で叫ぶわけ。

叫んであっちこっち行ったら、今の時代、捕まりますよね。

今の時代に拡声器を持って、叫びまくったのがキリストですよ。

今の時代拡声器で叫んだところで何の解決にもならない。

コロナの問題を解くには皆さんの思考以外にない。

だから、前々から言っている国家論の話。「私はこういう生活をするよ」

「私はきちんと調べて医学を勉強した。すると私たちは嘘を言われたんだ」と気づく。

そして、私たちは魂があると気づく。

そして、世の中は最初私たちの魂が善の心で創っていったのだが、私たちを利用して今の世の中を創らされたんだと、そういうことを理解する。

その上で、私たちはこういう世の中を創っていく。

しかし、具体的に「ワクチン要らない」ってすると、欲になっちゃう。

思考でものを考える時は、ある特定のものに対して、嫌だとか考えない。

そうなると、欲になっちゃう。

嫌だとか思わない。思うと力がそがれる。

できるだけ穏やかにあるがままにいきましょう。

「あるがまま」っていう言葉を出すと、今の人たちは否定形に入りたくなっちゃう。

「グズ」とか、「努力しないで世の中変わるわけない」とか。

反論した人たちは負の連鎖に入っちゃっている。

そこに気づかないとね。

「人はどんな思考をしてもいい」というのが宇宙の定理だから。

ひとりひとりが創造主だから、魂の世界では皆平等。

だから、悪を想うのも平等なんです。

ただし、そこで変わってくるのは波長域。

悪の波長域と善の波長域は全然変わってくるでしょう?

だから皆がそれぞれ思考することは自由で、許されている。

悪の波長に善の波長が合わせないといけないという定理はない。

それは我々が選べるわけです。

だから今、二極化になっちゃうのかな?っていうのはそういうことです。

欲にまみれた波動の低い者と、欲のなくなった波動の高いもの、そして、その中間層にも、そういう分かれが来ているようだ。

何層かに分かれる可能性が出てきた気がする。

最初は二極化だったはずだが、徐々にどうも中道って自分がいいだしたが、中道がどうも広まって、「どっちにもつきませんよ」っていう人も出てきた。

中道をちょっと取り間違えているかなって俺は今思うんです。

以前にふくろうさんの言った中道は「右でもない左でもない真ん中を歩く事。それは現実にある橋の右と左ではなく、橋の真ん中を歩くこと」ではないんです。

ちょっとニュアンスが難しいんだけれど、その真ん中は「無、何もない、空っぽの状態」が中道なんです。

みなさんが最近中道って言いだしたのは、そういう道が出来上がっている。

その中道っていう道はありません。

中道は無なんです。

そこをちょっと理解した方がいいです。

そのために三層に分かれてきているなって自分は感じだした。

よく、左派だ、右派だって言うよね。それに対して、政治の世界でも中道だっていうでしょ。

あの中道っていう道ができている気がする。

自分に問いかけたほうがいい。

それはむしろ宙ぶらりんになっちゃうよ。

中道っていう宙ぶらりんの道は一番悪い道だと思います。

「頭をフラットにして歩くこと」が中道であり、ただ「右じゃない!左じゃない!」って言っているのが中道じゃないよ。

危ない危ない。

ふくろうさん、そんなつもりじゃなく、中道って言ったんだけど。

みんな理解したら、それぞれの解釈でまた広げてあげてね。

うちのマリさん的には少しだけその中道違うなってことで、この間ツイートで「状況によって右にも左にもなる。どちらも答えになる」っていうつもりで書いたようなんだけど、右にも左にも答えはあるっていうのも俺は若干違うと思う。

ふくろうさん的には、「答えがないから、右にも左にも答えはない、答えは自分の身にしかない」っていうのが自分の方程式なんだよね。

「自分のみにしかない」っていうのが中道なんだけど、「答えは?」っていったら、何もない。無なんだよね。

だからすごくここが難しいんだよね。

「答えがないのに、何で自分が答えっていうの?」って矛盾が出てくる。

ふくろうさん矛盾言っているよって言われると思うが、そうなんだよね。

矛盾を取り込むことで、前に進むことができるんだよ。

ふくろうさん的言葉で言えば、飽和っていう言葉を使いたい。

みなさん、ちょっとだけ画面の前から離れて、後ろを向いてください。

そして、自分のお腹の方をみて、「そっか!答えは無なんだな~」って思ってください。

じ~っと感じてみてください。

なんか、お腹の力みたいなのがす~っと降りていく感じしませんか?

「そっか!」ではなく、落ち着いていくっていう感じしませんか?

「無っていう状態なんだ」って、魂に言うと。

一度こういうツイートやブログみていて、「ん?なんか変だ」って思った時に、今みたいに自分の魂に問いかけてみてください。

その問いかけは、何も問いかけず「無なんだ」って集中する。

それから、画面を又見ると、自分がごろんと変わるんだ。

これは俺流の精神統一方法なんだよね。

どうもこれは脳を動かさず、魂が思考を始めるっていうことなのかなって思うんだよね。

自分はたまーにごろんと変わる時がある。

読んでいた文章が違うように見えたり、書いた人の裏の心が読めるようになったり。

極端に言えば、本当はこういうことを言いたかったんだなって折り紙の色の中に言葉の音みたいなのが聞こえて、お腹か胸に入ってくる。

すると、これは確かだって思うようにしている。

これが頭で考えるのと、お腹で考える事の違いを確かめる方法なんだけど。

なかなか、脳に騙されることもあるのでね。

ここはしっかり訓練しておいた方がいいかもね。

さて、問題は昔の人達が何の為に修行したのかっていうと、「欲というものをいかに消すか」ここがポイントなんだって理解していたから、ああいう修行に入っていった。

欲が物質化の要素になっているわけです。

だから、我々はその物質化を避けたいと思っていると思う。

みなさん。そのためには欲をなくする。

欲があるうちは物質世界からは抜ける事はできないよっていうことです。

ということで、あとはみなさん自分でゆっくり考えて、修行していってください。

最後の修行ですから、頑張って、楽しみながらね。

中道については少し難しいからこっちの記事にも詳しく言ってます↓

ふくろうさんの中道について。
ふくろうです。 マリから、中道のことが難しくてよくわからないと言われたので、もう少し詳しく話してみたいと思います。 「右じゃない左じゃない。だから、真ん中を歩こう」っていうのが第一段階だよね。 第二段階になると、「右でもない左でもない。でも実は右も左もない。皆嘘っぱち」なんだよ。