南米に移住して改めて思う【日本語がなぜ難しいのか】

ふくろうの知恵袋のひとりごと

ふくろうの知恵袋です。

これはあくまで俺の意見だよ。

60年間生きてきて、パラグアイに移住してきて、この常用語であるスペイン語や英語、そしてつくづく日本語について考えている。

「日本語って難しい」って学者がよく言うが、何が難しいかというと、「日本語って心を読む言語」だよな、と。

要するに、日本語を言葉として発するが、会話のうちの半分くらいは相手の心を読もうとしていないか?

「この人は何を言いたいんだろう」「一体何を思っているんだろう」「この人は今日何があったんだろう」「この人に何が起きたんだろう」など・・・必ず相手の状況を読もうとする。

日本語の言語は言葉もさることながら、言葉の抑揚、強い弱い。それから、伸ばしてみたり、よく「ん~」などの感嘆語を日本人って良く使う。あれも言葉なんだよね。

それによって相手に伝えようとするわけだよね。

だから、自分たちの会話を振り返って欲しいのだが、相手に自分の気持ちをちゃんと伝えようとするときに、感嘆語を使わない?「んー」とか、「えー」とか、「おー」とか。

古代人が使うような感嘆語を使って、相手に分かってくれよみたいな部分ってない?

そして日本人のすごいところは、それを受け取れる能力をもっているのでは?

パラグアイに来て、あまりこの感嘆語を聞かないね。

まぁ、こうやって外国に住んで、つくづく思いますな。

この「日本語の難しさ」

南米の日系人の人と、話してみると、日本語を使おうとしているんだよね。

日系人との会話の中でいつも、「なんか違和感があるなー」と思ったのは、そこなんだ。

私たち日本人は言葉を使おうとしてしゃべっていない。

言葉は道具であると考えていて、一番大事なのは「心の問題」であって、そこを読み取ろうとするよね。

それが、外国にくると、言葉に頼っちゃう。言葉で理解しようと思っちゃう。

日本人って絶対、言葉だけでは理解しようとしない。

でもね、今の日本国はその言葉だけで判断するようになっちゃったんじゃないかな。

それがね、悪いのが今書いている、このブログとか、SNSとか、お互いにメールでやりとりするよね。

これによって本当の日本語、相手を読むというのが失われていっているのでは。

だから、妻のマリと会話すると、どうも難しい。

結局、何が難しいのかというと、慎重に言葉を選ばないとならない。

「何で彼女はこの言葉で理解できないのだろう」「何で分からないかな」、これが連発で出てしまう。

俺は相手の表情とか、しぐさととか、そういうのも全部ひっくるめて、読み取ろうとする。

マリはやっぱりメールやSNSに慣れちゃってるから、実際に話をするときは、「お前はロボットか!」って言いたくなるんだよね。

「それじゃあ、相手に伝わらんよ!」と。

とくに「喜怒哀楽をつけて、子育てをして欲しい」と思う。

この喜怒哀楽が、マリを含め現代人は足りなくなってきているのでは。

だから、言葉だけで相手を攻めたり、言葉の応酬、屁理屈ばっかり言ったり。

いろいろな人のブログをたまに見るが、その言葉の応酬を見ると、「こいつら馬鹿じゃないの。こんな言葉のお遊びをやったって結論なんてでないだろ」と思う。

文章で読むのは、本に限ることなんじゃないかな、と俺は思う。

本を読むというのは自分で想像しながら読む。

一冊の本が、いろんな読み手によって、変わっていく。

それが本のいいところ。

タイトルも内容も同じ本でも、読み手によって自分なりの本になっちゃう。

それは、自分の人生の今までの体験や経験を踏まえて、本を読んでいくわけだよ。

だからそれぞれ感じ方、感想文が変わってくるわけ。

では、ブログに関しては、どうなんだろうね。んー。。。。。

なにかこう、「心」が見えないブログが多いなと思う。

「お体裁よくまとめているな、心がねーよ。これじゃあ、このブログは読みきれんよ。つまらん。」

妻のブログ記事を読むと、たまーにつまんない記事がでてくる。

つまらないときは、大概お体裁よく書いているとき。無難に書こうという感じが分かる。

俺はマリのブログのファン1号。マリの記事は面白い。

お体裁よくかかない部分が特に面白い。

それが、日本語の基本形だと思う。

心っていうか。

マリの文章から、彼女の心を読みとろうとすると、いろいろと見えてくると面白いなーと思う。

最近はそんな書く側の心が読み取れないブログが多くて、つまらない。

「言葉を上手いこと並べたなー。くだらねーなー」と感じる。

人というのは心と心が交じり合ってこそ日本語である。

これからのブログはもっと進化して欲しい。

我々は日本人であるということを自覚して、心のあるブログを私はぜひとも読みたい。

あるブログをたまに覗くと、「こんなブログでランキングトップ?こんなものお前、テクニック使っているだけじゃん。これは金儲けだよ。マリ、金儲けのためのブログはやめなさいよ。」と常々言ってある。

心のあるブログにしていかないといけない。

我々日本語は心ある言語だから、それにそったブログにしていかないといけない。

マリはやめなさいよね。金もうけ。

日本語にもっと誇りを持とう。

子供にはこの日本語のすばらしさ、自然を通じて、伝えていこうと思う。

日本人は八百万の神がいるんだという考え方に基づいて言語のはず。

これはすべてに感謝するという意味。

日本人はそれを持っている。言語もそれになっていかなければならない。

その部分を子供に教えていかないといけないな、と。

そのためには土地を購入して家を建てているけれど、良いところに建てているなとおもう。

そこでは子供へ日本人とは何かということをしっかりと教えられるような気がする。

俺はパラグアイに来て土地を購入して、ここで子育てできるということに非常に満足している。

今の日本では、この心ある日本語を教えることが出来ないのでは。

逆にパラグアイではしっかりと日本語を教えることが出来るのでは。

これが移住して思ったこと。

パラグアイに来て、パラグアイ人というか白人というか、その人たちはある研究によると虫の音(おと)、日本では音(ね)と書くが、日本人は虫の音を「左脳」で聞いているという発表があった。

左脳は言語を処理する方で、日本人は虫の音を言語として聞いている。

虫の音を聞いて、秋だね~とか風情だね~とか、心に刻むのだと思う。

そして、西洋人は虫の音を右脳で聞くという研究発表があり、右脳では雑音として処理される状態。

雑音、、、車の音や、機械の音などと同じく虫の音を聞き取っているらしい。

私から言わせれば美術や芸術にしても、油で塗ったくるような絵しかかけないのは、こういう理由だからなのかと、長年の疑問が解けた。

油絵を批判するのは勇気がいるが、俺は還暦なのであえて言う。

「ゴッホなんてどこがいいの?」と思う。

絵を遠くから見ないと分からないじゃん。

専門家が、「このタッチがすごい」と言うが、なんのタッチだか。。。

虫の音が分からない人に、絵なんてかけるわけないじゃん。

だから、音楽も、ロックなどの雑音みたいな音楽が出てくるんだと思う。

こういうのを今の世の中は批判してはいけないという共産主義の世の中になっているが、あえて言いたい。

地球全体が民主主義を訴えているのなら、本当の民主主義の道を歩んで生きたいと思うからあえてこういうことを書く。

本来の民主主義は何言ったっていい。個人個人意見が違うのは当たり前。

民主主義というのは国家がある時点でなりたたない。みんな好き勝手なことをいうんだから。

この国家があること自体が間違えている。

だいたい、一昔前までは「国家とは?」とみんなで議論をして、国家とはこうだとか、ああだとか議論が成り立ったが、今ここまで進化した世の中での国家論は成り立たない。

経済学も嘘八百だというのも露見しちゃったし。

いまだに経済学が正しいと思って経済学を学んだら、こんな学問嘘だから学ばない方がいい。

紙切れ学問。

紙切れとは金のこと。

金自体が嘘。金がないと生きていけないというのは嘘。

金がない方が世の中平和に生きていけた。

金は世の中の人類を管理しやすい。

それにまんまと乗った、過去の人間たちへ、あえて言う。

さんざん金に騙されてきた大馬鹿者なんだ。

言語の話から若干ずれているように思うかもしれないが、こういうことひっくるめてすべて言語が関係してくるのだと思う。

聖書の中ではバビロンの塔でしたっけ?

神に近づいていこうとしてどんどんと高く建てていった。

それが悪であるということで、みんな意思疎通ができないように一致団結しないように神様がいろいろな言語を与えた。

バビロンの塔は建設できなくなったと言う話。

でも俺はおかしいと思う。

俺が神様だったら、人間たちに超能力とかテレパシーを与えるね。

神様は絶対だから、そんなものに立ち向かったって勝てるわけないと普通の人間は思う。

なんか聖書のその部分読んで、変だよな~といつも思う。

キリスト教やっている人も読んでいると思うが、俺は聖書自体は否定していないし、何度も読んでいる。

変だよな、と思う部分がたくさんある。

聖書は何十回も権力者が変更しているんじゃないのかと思う。

ということで、虫の音の話にもどすと、研究発表からも、日本人と日本人以外の人たちのとりかたは全然違うということが分かった。

こんなものは研究発表しなくたって分かってるんだけれど。

今の人たちは研究発表されないと、「嘘ばっかり」とか、「誰が言った」「どこの大学の?」と、とことん人のことを信用しない人ばかりだよね。

そんな日本が嫌になり、世の中が嫌になりパラグアイに来た。

パラグアイは超田舎だよ。

言葉なんてわかんない方がいい。

パラグアイで残りの人生を生きて死ねば良いと思って来たんだけれど、マリという人間と出会って、ついぞ、もう一度現代人たちと仕方なく付き合っていかないといけなくなった。

今までは西洋やアメリカの方が我々日本よりもずっとすばらしい、ずっと上だといわれてきた。

でもそれは絶対に違う。

海外に行けばいくほど、違うと実感してくる。

アメリカへ行ったら、ばかばか肉ばかり食って、ぶくぶく太って、こんなの人間じゃないよ、宇宙人だよと思った。

日本へ行って、テレビを見ると、ヨーロッパやアメリカの方が文化が優れていると洗脳されてきたが、実際に現地へ行くと、全然レベルが低いということが分かった。

西洋医学なんて、まったくのナンセンスの話。

こんな人種に西洋医学?医学なんて分かるわけないだろう。

この人たちは悪いところあれば切れ、とれ。

パラグアイに来てごらん。

「足が痛い」と病院へ行くと、「足を切れ」と言われる。

それを見て笑ったが、それが西洋医学の基本形。

鉄砲の弾を抜いたりの手術のやり方は、こっちの人の方が荒っぽくて上手い。

日本の手術は繊細すぎてだめだと思う。

俺は建築業でよく腕や足を切ったりして、時間がないから自分で針と糸で縫ったことがある。

自分で縫った傷は痕が何も残っておらず、皮膚が綺麗。

でも、おでこ切ったときに、医者が縫った傷の痕は今でも残っている。

日本の医者は縫うのが下手なんだと思う。

自分で針と糸でざっくり縫った方が、傷の痕が残らない。

言語から、こういう話になっているけれど、言葉は、人格、環境、すべてのものが出てくる。

芸術なども含め、いろいろなことを話さないと、言語とは何かというのが見えてこない。

マリとパラグアイ人のやりとりを見ると、もっと分かりやすいかも。

マリ「今日は涼しくて、過ごしやすいね。」

パラグアイ人「今日は、暑いよ。」

マリいわく、いつも「過ごしやすくて丁度いいね」と言うと、パラグアイ人はいつも変な顔をするらしい。

パラグアイ人は、いつもYES,NOのどちらかしかない。

暑くて上着を脱ぐか寒くて上着を着るか、中間の丁度いいとなると何もアクションする必要がないので、気にかける必要がない。

心地いい温度なんだ、というのを日本人は感じとれ、それを人に伝えるのが普通だが、パラグアイ人は中間がなく、どうでもいいこと。

「今日は金になるかならないか」「暑いか寒いか」それしかない。

つくづくパラグアイに来て、俺はスペイン語がしゃべれなくて良かったと思う。

スペイン語をしゃべれたら、こいつらの頭をぶったたいていたかもしれない。

日本語はほんとうにすばらしい言語だな、と外国にくると余計に思うようになりましたね。

俺らはこんなにすばらしい言語を使っていたんだ。

言語とは何かというと、ただ単に暑い寒いだけではない。

我々日本人は中間のあいまいな部分。

千利休がいった、わびさび、これが分かるのが日本人。

日本人は食の文化でいうと、前に誰かが言っていた。

「フランス料理より、和食の方がはるかに上手い」と。

要するに、うまみを日本人は分かる。それが外国人はない。

なるほどな、今思えば、その通りだよな。

YESかNOしかない人間は、料理を作ったら、しょっぱい、甘い、辛いなど、直線的な味覚でいく。

でも日本人は直線的な味覚だけでいってしまうと、料理はおいしくないというのをわかっている。

直線的にならないように、鰹節とか、あごとか、昆布とか、しいたけとかを使う。

我が家はあごだしをもらいまして、放射能がどれだけ濃縮されているか分かりませんが、あごだしはかなり上手い。

なんにでも合うあごだし。

うちの場合は、放射能除去装置を持っているので、それで料理を作っているので放射能はあまり気にしていません。

「日本の食材はやめたほうがいい」と言われているが、我が家は放射能除去装置があるのであまり気にしてない。

放射能は簡単にとれるものだと思う。

逆に放射能は簡単にはとれないものだといってるほうが、俺は洗脳かなと思っている。

放射性物質がなくなるまでに何百年、何千年もかかると書かれているブログもあるが、放射能は何千年も何万年も残るものではないと俺は思う。

何もせず黙ってほっておけば何万年も残るんだと思う。

でも我が家は放射能除去装置を持っている。

宇宙船艦大和が地球の放射能を取り除くために、放射能除去装置がある星へとりに行くというお話がありますね。

それを無事に受け取って、地球に放射能除去装置を置いたら、地球が再生し緑になった。

宇宙船艦大和ははるかかなたの宇宙へとりに行ったようだが、、、我々なら1,2秒でとりにいける距離だと思いますが。

こんな馬鹿な数学を勉強する人に、何億光年だとか、分かるわけないと思っている。

数学自体が、俺から言わせれば馬鹿な学問だよね。

マイナスがある時点で馬鹿だよね。マイナスなんてあるわけない。

日本人にあえて言いたい。もう一度、自分で江戸時代などの昔の文献を自分なりに考察してみてほしい。

そこに何かの真実が出てくるはず。

誰かが言っているのではなく、これからの時代は自分で調べて、事実を受け取る人間になって欲しい。

学者はお金のことしか考えていないし、普通に嘘ばかりつく。

この世の中、嘘っぱちの世界。

金の世界だから。

俺は昔は自営業で商売をやってきたが、今は商売をやらん!という主義になった。

商売は金の世界で生きている。

金の世界は詐欺をしないと儲からない。

ほとんど「その仕事、できると思う」の世界でやるからね。

確証なんてない。

できなかったらごめんなさーい。あとはとんずらするだけ。

金の世界で誠の心は出てこない。

誠の言語も出てくるわけがない。

西洋は金の世界が広がるのが早かった。

だから、余計におかしな言語になっていったのだと思う。

でも日本は明治前までは金だけで生きていなかった。

江戸時代は金で生きていたというイメージをつけさせようと時代劇を一生懸命テレビでやっているが、実際の江戸時代は今よりも貧困者は少なく、金がなくても生きていける世界だった。

明治以降、今のような世界になってしまった。

伊藤博文などの悪い奴らがみんなお札になっていく。

俺はお札にはなりたくないと思う。あれは悪い奴の象徴だもの。

さて、日本語のすばらしさを再認識して、小学生から英語をやりましょうというのに、大いに反対しましょう。

国際社会に入っていくのにみんな英語を勉強しましょうという流れがある。

俺は言いたい。「海外のお前たちが日本語を勉強しなさいよ」と。

英語を標準語にするのではなく、日本語を広めて日本語を標準語にしようよ。

あんな英語やスペイン語で繊細な表現なんてできません。

うちのマリは、現在スペイン語の通訳状態にあり、家を建てるのに俺と大工さんとの間をとりもつ。

言葉が伝わらなくて、最近ノイローゼ気味に。

日本人が家を建てるとき、とても繊細。

大工さんはYESかNOしかないから、マリの言いたい、あいまいさがなかなか伝わらない。

最後は、「加減して工事してね」と言うが、加減自体がスペイン語圏の人は意味不明なので、伝わらない。

マリが家を建築中で、すごく悪戦苦闘して、スペイン語で大工さんと一生懸命交渉している姿を見て、つくづく「あーかわいそうだな」と。

マリの考えているあいまいなことを言っても伝わらない。

余談ですが、地球温暖化の話も、ここまで気候がおかしくなったら、さすがのNHKや世界的にも最近は何も言わなくなってきたようで。。。

最近地球温暖化って言わなくなったと思いませんか?一般人もさすがに、おかしいと思い始めているのでは。

ということで、みなさんさようなら。