「無為自然」

ふくろうの知恵袋のひとりごと

 ふくろうです。

 ふくろうさんは過去に孔子と戦っていたのかもしれないなーと、ふと思うよ。親孝行。上の者は大切に孔子の言っている事は道理が通らないんだよね。孔子は完全にあちら側なんだよね。

 親孝行だけじゃなく、人孝行だろうが、上も下もあるわけないじゃんかよ。孔子といえばとにかく決まり事。

「階段は1つの足をのせたら、2つ目の足を揃えて登っていくもの」

 これじゃあ、敵が攻めてきたら殺されてしまうわ!

「法はあってはならない。上が決めたこと、天が決めたことに従えば良いんだよ」

 結局、儒教が優位に立っていたのは、後の帝たちが式典のやり方が分からず、儒教家に頼ったからなんだよね。やっぱり、天から罰が当たるのを怖がっただけなんだよ。それが、今日まで続いているのには驚きだよ。

 しかも日本の教育は、明治からこの儒教を主に教えていくんだから、そりゃ国民もお上の言う事に従うわな。天皇陛下万歳!になるわな。

 ロクな事しなかった孔子だよ。奴はただ単に就職活動をして、失敗の見本みたいな人だったんだよ。当然史書では、儒教家が書き込む仕事を請け負っているから、大先生孔子様の都合の悪いことは書かないわけだよ。

 そして、世界三大聖人の一人に孔子がなった時、ノーベル賞と同じで、またまた支配層の悪だくみだなぁーと。英国の大学もグレタを銅像にしたのだから、世の中がいかに適当か分かりそうなもんだよ。そんな世の中、ふくろうさんは生きたくもないね。人に批判されようが、私はこの家族と毎日楽しい日々を送り、幸せをめいいっぱい感じますね。

 一番我々がやられてきた死の概念を取り除けばいいだけだよ。私の行った死の世界に三途の川はなかったよ。この三途の川の死はあちら側が創った仕組みなのだろう。そこへ行ったら、輪廻の仕組みに入ってしまったんだね。

 私は山の頂から見ていたのだけれど、生まれ変わる時に人は海に飛び込んだり、池に飛び込んだりと、水に飛び込むんだよね。

 そして「やっぱりやめた」という者は水子みたいになるんだよ。あまり水子で悩まない方がいいよ。向こう側で止める場合がほとんどだから、まれにこちらの都合の場合もあるけどね。

 この死の概念を取り除くと、もう輪廻に取り込まれることはないんだよ。我々に「生と死」をあらゆる方法で取り入れるようにおこなってきたわけですよ。そこから、宗教が産まれてくる。そして、死に対する恐れを植え付けられ、取り込んできたけど、もうその罠にはまっちゃいけないよ。

 「死はない」と思えばないから。貧乏なんてものもないんだよ。皆一律の仲間なんだよ。あの嫌な金持ちも、悔しいけれど仲間なんだよ。だから、我々はもっともっと寛容にならなくてはいけないんだろうね。骨の折れる事だわね。

 ところで話は変わるけれど、ふくろうさんの所は今のところ180坪くらいは屋根を作ったかね。居間は40畳のヤクザの居間みたいな広さ。あとは、納戸と子供2人なので部屋2つに寝るところという具合。風呂は別に只今建築中なので、今のところシャワーだけ。

 その他、他人が泊まれるように2部屋作ってある。お客さん用のトイレとシャワー、台所もある。まだ、3部屋を増築中なので、もう1家族が住めるようにしようとガンバッテいる所だよ。

 これが終わったら、別の所にもう一つ200坪くらいの「みなしごの家」を作りたいと思っている。そして、親も子もない一人の人間として、共に生きていきたい。これが今のふくろうさんの望みだね。

 そうね。まだ10万ドルくらいはいるかもしれないが、紙切れはどこからか飛んでくるでしょう。たかが10万ドルのはした金だ、なんてね。(ここは1つお金を違う物に例えて思考してみるかな。例えば、畑の中から金塊が出てきたー!とか。どうにかなるさね)

 今の家だけでも結構お金使っているからね。そして、泊まっていく人はすべて無料だから。ん~ん。何とかなるでしょう。そこはふくろうさんは大都会東京で何十年も戦ってきたんだから、知恵はすごいよ。

「無為自然」

 これは老子の言葉である。

 どうしようもない時は何もしない方が何かをした事になる。自然に身を委ねなさいという意味だと思うが、これこそ「あるがまま」の姿なんだよね。「あるがまま」少し理解できたかな?

 毎日悩んで働いてこれが本来の姿、人の姿だったのかな?

 思い出してみようよ。たぶん違うと思うよ。

 今の時代、まさに「無為自然」であるべき時だよね。どうしようもないのだから。いろいろと言う人はいると思うけれど、私は私の中の自分と向き合い、この状況が産まれているのかもしれない。

 我々は一滴の水だ。

 一滴の水が集まり、川となり、大海となる。

 しかし、大海も一滴の水なのである。すくってもすくっても、すくえない水。

 水はあらゆる情報(知、情など)をもっている。どんなものにも変化する。そんな一滴の水が我々なのだ。集まるわけではなく、個でもない水。水に上も下も右も左もない。あるのは「真」のみ。

 なによりもこの一滴の水が永遠であり、広大で宇宙のすみずみまで行き届くものを持っている。それは、言葉に置き換える事ができない。遥かなり。

 そして、やはりあるがままかなー。そんなところに愛なんてちっぽけな言葉が入る余地は何もない。愛という言葉を使うのならば、それは自分を小さくするものだ。もっと我々は雄大であるんだよ。そこに存在するものは愛なんていうちっぽけなものではない。あるがままのそのままなんだよ。

 「子を愛情をもって育てましょう」と言われる。でもふくろうさんのところはそんなちっぽけな愛情は当たり前のものとして存在していて、それよりも、あるがままの姿で育ってほしいと願うね。

 我々の愛情なんていうものじゃなくて、もっと広大なものから何かを得て、成長してほしいな。そう思うね。もっと子を自由に大らかに、できれば親の干渉なしに、のびのびと育ててやってほしいな。まだ力がない部分は親がそっと寄り添ってあげればいいだけなんじゃないかな。親なんてそんなご立派なものじゃないんじゃないかな。俺はそう思うな。

 むしろ、子供に教えられる方が多いわけだから、いかに自分が低い所で生きてきたかまざまざと子供から教えられている今日この頃だよ。そして、自然に教えられる今日この頃だね。みなさん健やかに生きていってください。

 最近一週間が5日くらいしかない状態になってきて、どんどん時間短縮になっていきますな。うちの奥さんと会話で「なーんかこの数字で間違えてたんじゃないかな」って話していますよ。

 それは、この数字ですらマンデラをかけることができるんだなーっていうのが分かってきたよ。私たちの夫婦の年の差は29、30歳差。になっているわけだ。ところが、最近計算してみると28歳差になり、今は27歳差になってきているみたいで、数字自体がマンデラ状態になっている。

 きっと歴史の数字も100年くらいはぱーんと消えているんだろうね。でも我々はそれに気づかない。数字ですら、マンデラかかり、嘘だということが分かったら、科学も何も嘘だと言う事が分かるんだよね。世の中に本当はないんだよ。

「じゃ、何がほんとうか?」と言ったら、そこには有がないということ。あるのは無しかない。すなわち、自分たちもないのだ。あると思うから、この現実から逃れる事ができない。自分たちはないんだよ。ないことに気づくことが、このマトリックスから逃れる方法なんだろうね。

 しかしながら、自分がないということを悟るには相当なる覚悟と至難がいるよね。だって自分が存在しないってことになったら、なんのための自分なんだろうって思っちゃう。そうなんだよー、困っちゃうんだよねー。

 自分がないということは、自分は何かに溶け込んでいるような感じなんだよ。それを自覚できれば、きっと抜けられるよ。最後にちょっとだけ難しい話だったかな。

今日はこの辺で。