ふくろうです。
今世界は戻ろうとしている。
新しい事は良い事だけではない。
本来の意味のある世界へ戻ろうとしている。
身体は簡単な仕組みから、元々の頑丈な身体に戻ろうとしている。
あまりにもひ弱にされた身体を元に戻さないと。
戻るという事はある意味進歩したのです。
進歩したから戻るのです。
立体から平面へ、そして点へと戻り、複合が始まる。
それは新たなる旅立ちです。
単から複合になっていくんです。
何のための勉強だったのか?
それは単位において理解を深め、相交わって複合になっていく為のものだったのです。
愛(あい)から愛(いつくしみ)へ変わっていく。
文字も本来の言い方に変わっていく。元に戻るのです。
マンデラで随分前から文字が変化したというのがあったが、これは本来の姿、元に戻ろうとしている。
元に戻る事が前進する事ですから、これから起こる事は「どうして?」ではなく、「そうなんだ」ととらえればいいだけです。
むやみに考えたり、悩んだりしない事。
あるがままに受け入れていればいいのです。
すべては自分が解っている事なんだ。
ただ感じられない自分がいるだけ。
川に落ちた葉っぱは、必ず大海に出ます。
信じる事です。
私たちは絶えず今を想い、今を生きればいいのだ。
「なぜ私は不幸なの?」だから、不幸の世界から抜け出せない。
「なぜ私にはお金が入ってこないの?」だから、お金の中心の世界から抜け出すことができない。
「もし、病気になったら?」だから、病気がやってくる。
「うちの子はなぜ障害者になったの?」あなた方が障害者なのですよ。
「私は普通」が普通じゃないんです。
世の中は鏡です。
「なぜ?」「どうして?」の発想で反するものがやってきます。
鏡の世界はあるがままでいないと真逆がやってきます。
幸せを感じればいいのです。
幸せの反対は不幸ではありません。
不幸という言葉がありません。
2文字は反対語になりません。
文字は鏡です。
願いを書くことは、絵を描いていることになります。
文字を大切に。文字を書いて壁に貼ったりする行為は絵を壁にかける行為と同じです。
文字は見えないものを現実化することに役立ちます。
文字の始まりはこうして訪れました。
年をとる。そして老人になる。
老人になることは子供に戻ることを理解すると、人は不死になるのです。
そう。螺旋の世界を理解する事になるからです。
私たちは不死を与えられました。
不死だからこそ、死を理解したかったのです。
私たちは生まれる事は理解していましたが、死が分からなかったのです。
それを理解することにより、私たちは存在する事を理解したのです。
実に単純な事でした。
単純がゆえに、理解できない。
そういうものかもしれません。
幸せなはずなのに、分からないという事です。
だから、ありもしない不幸というものを探そうとして、幸せをみつけようとしたのです。
宇宙の真理に死、滅することはありません。
目の前から消えても必ず違う所で生まれるのです。
理解を越えたとき、悟りが訪れます。
そして、そこにあるものは「無」だった事を私たちは見つけるはずです。