ふくろうさんの中道について。

ふくろうの知恵袋のひとりごと

ふくろうです。

↓の記事にも少し中道について言ったんだけどさ。

危うく魂が吸われそうになった。。。 | ☆南米よちよち歩き×ふくろうの知恵袋☆ (nanbeiyochi2.com)

マリから、中道のことが難しくてよくわからないと言われたので、もう少し詳しく話してみたいと思います。

「右じゃない左じゃない。だから、真ん中を歩こう」っていうのが第一段階だよね。

第二段階になると、「右でもない左でもない。でも実は右も左もない。皆嘘っぱち」なんだよ。

嘘っぱちの真ん中を歩こうったって橋すらあるかどうか分からない。

じゃ、私はどこを行けばいいのか?

方法論として、ないところを行くしかないんだから、この身体で考えるんじゃなくて、「精神で中道を歩けばいいんだな」っていうことに目覚めてくる。

人によっては無視をするっていう言葉も出てくるかもしれないが、右と左を無視するわけではない。

この辺は自分なりのやり方だと思うよ。

俺はどっちかというと、最初は無視っていうとらえ方で進んでいったんだよね。

その方が楽だった。「右も左も無視する。だから俺は真ん中を歩く」ってやってきた。

ある時、「でも右も左もちょっと待ってよ?なんか変だ。これを国会で考えてみよう」と思った。

与党と野党がいる。自分は中道だってなれば、俺は国会を認めていることになるじゃないか。

国会なんて嘘の劇なんだよ。舞台なんだよね。そこに大根役者が皆揃って嘘八百をしているんだよね。

それが国会だ。

自分がそこを分かっているはずなのに、なんで中道をいっているんだ?それなら国会を認めているんじゃないか。

すなわちこの現実を認めていることになる。

お前は認めているのか?俺は認めてないよ

そうだろ。お前は何の中道を歩こうとしているのか?

自分が認めてしまったら、そこに認めた道ができるんだよな。

すなわち認めるってことは有限になる。

ああ!なら、俺は認めないぞとなった。

みんな中道って橋を歩くときに、右じゃない左じゃないっていうと、右と左が見えているわけだよね。

見えているんだけど、みんな何もない。

中道を理解するためには、言葉がなくなっちゃう。

悟らないといけないから。

何人もこれを悟った昔の人たちがいる。悟るということは、頑なに信じるという事。

自分たちがこの世は何もないって思う。でも目を開けるとある。

あると思っても実はそれは映像なんだよ。3Dでカメラが目なんだ。だから立体に見えるんだ。見えている目のカメラをとればいい。

とりました。すなわち目を塞いででみた。

目の前にあなたは何がみえますか?

みえません。

でも待てよ。何かを感じるぞ?

じゃ、その感じるぞってどこが感じるのか?

腹の中、心の中、魂が感じるぞって言っている。

その魂体と第三の目っていうのは、本当の魂体の目なんだ。それが今まで閉じていたから見えなかった。

それが第三の目が開くと、世の中が変わって見えるようになる。そこには何かが映し出されるのかもしれない。

でも、第三の目で見るものすらも、実は無なんだよ。

すなわち、中道とは、無なんだけど、無とは何かというと、それは帰ることなんだ。

一番最初の元に帰る事を自分は無だと思っている。

だって第三の目が開いたら、それでいいじゃないかと。そこに見えているものが本当の世界なんだ。なら、それが本当なんだからそれでいいんじゃない?

でも、それすらも、本当かどうかは分からないんだよ。

なら、結論的には元に我々は帰るしかない。

すなわち、「宇宙は揺らぎから始まったよ」の、さらに前に帰る。

宇宙の揺らぎの一番最初がゼロ点だとしたら、ゼロ点よりも前に帰る。

実はこれを我々は究極の目標として据えているんじゃないかな。

だから、俺にとっての無とは、揺らぎが始まる前のゼロ点の前に帰る事。

これが無の境地であり、真理である。

これは究極の話。

我々が生まれたところまでは帰れるはず。

でもそれでは何の進歩もない。

我々が生まれる前に帰ってこそ、初めて我々は進歩する。

これが俺の真理だと思う。

そのためにこういうことを経験しないと、帰れないわけ。

人間色んなことを経験しないと、元に戻れない。

元のさらに元に戻るってことは、未知数。

経験も何もないから。究極的な話だよね。

どうしても俺はそれをやりたいなって思う。

必ずこそに何かがあるんじゃないかなって思っちゃうんだよ。

何にもないんだけど、何にもないんだからこそ何かがあるんじゃないかな。

ここでも矛盾。

ないんだけど、ある。

あるというよりも、感じるっていうことかな。

自分たちの生まれ故郷まで帰ることは、10次元くらいのところで終わっちゃうと思う。

その向こうは生まれた所の前だから。

そこが次元っていう言葉で言うのなら、20も30も行くんだと思う。

そこは誰一人踏み込んだことのない世界だと思う。

だから、我々は有限っていうものを味わっているんだと思う。

有限を味わうからこそ無限が分かる。

無限が広がっても有限が味わえないから。

まずは有限を味わいたくてこの世界を創っているんだと思う。

そして、勉強しているんだと思う。

果ての無にいくための、有であると。

もとのさやに納まったってつまんないじゃん。

かといって、この文明まできたよね。これから先1000年進んだところで何がある?

ただ有が永遠に続くだけで、また何かの葛藤が始まると思う。

有の先は、限りがあると思う。それは非常につまらない冒険であって。

自分が行きたい冒険は無の向こうの向こうにあるものをみたいっていう欲がどうしてもでちゃう。

そこでまた欲が出てきて、欲との戦いになっちゃう。

だから、難しい。

無の向こうはないはずなんだけど、自分がそこに存在するだけで、何かが生まれると思う。

じゃ、自分の存在をなくすればいいのか?でもなくするってどういうこと?

わからない。

これは修行なんだろうな。

無の向こうに行きたいって言うんだから、これは何億年何兆年かかろうが結論がでるわけない。

無の向こうに行きたいって言って、例えば行ったとするよね。

すると、人間はさらに無の向こうに行きたいって思っちゃう。

それだと限りがないよね。

そこの頃合いなんだよね。

今風の言葉でいえばさ。

その頃合いをどう見計らうか?っていう言葉しか出てこないな。

非常にダサい言葉だけど。

この程度の言語で表現してって言われても非常に難しいな。

この中道を考えていって、有限や無限を考えてていって、そして、我々がたどり着くところは何なんだって考えていった時に、これを皆と共有しようとした自分がいるんだけど、皆と共有したければそこに言葉で広げないといけない。

で、ブログをやってみたんだけど、とてもじゃないが、低い言語レベルでは表現ができないんだよね。

自分的にはこれを考えたときに、我々の言語って非常に低いんだって分かってきた。

さらに英語やスペイン語は日本語よりもはるかにレベルが低い言葉だよ。

たかが、ABCしかない言語なんだから。

日本語にいたっては、今の長女の小学1年生の勉強をみると、ひらがな、カタカナ、漢字、字だけでも沢山でてきて、うちの場合は神代文字もでてきて、これが言語になれば、例えば数の数え方にしても、1,2、ひとよ、ひとつふたつ、一個二個。とにかく数だけでも何でこんなに言葉が違うの?ってくらいあるわけだよね。

こんなのは英語やスペイン語は数はワン・ツー・スリー、ウノ・ドス・トレスだけで終わりんだよ。

ここも日本語がすごいって思うが、日本語を駆使しても、中道を語るには言語が低すぎて語れない。

マリ
マリ

無の部分が分からない。

 

わかりやすく言えば、俺の中道って無っぽいんだけど、極端に無じゃないんだよね~。

自分の心を宙に浮かしておくっていうのかな。地につけないで。

その状態で生きていくっていう感じかな。

無って言うのはないっていう意味じゃなくて、無というのがあるんだよね。

無から宇宙はできたっていうけれど、その向こうにいきたいっていうのは、無も有限ではあるけど、あるものなんだっていうこと。

あるのであれば、さらに向こうがあるはず。

その旅に出るためには、右だ左だって言っていたら行けない。

浮いているような自分。橋を渡る時には橋に足がついてないで、宇宙人のように橋を滑る様に歩くって言うのかな、浮いたような状態で歩く。

だから、どんどんどんと橋に足をつけて歩くから、右と左に巻き込まれちゃう。

浮いた状態でいけば、見えてはいるけれど、自分の身体には感じない。

中道っていうものを理解するためには、前の文章で出てきたように、段階があるんだよ。

段階を踏んでいかないと、自分の中道っていうものが見えてこないはずなんだよ。

それは自分の魂レベルによって違うから。

自分の魂レベルによって、とらえ方が変わっていくはず。

その変化を、例えばってことで、ふくろうさん的にはこういうとらえ方をしているっていう意味で言ってみたんだけどね。

マリ
マリ

うーん。。。

今回はここまでだな。ふくろうさん的には。またゆっくりと、もっと分かりやすいように考えてみるよ。

あー、難しい。

言葉がないんだよ。困ったな~。

言葉がないから、無という言葉を使うしかなくなっちゃう。

無に代わる言葉が欲しいんだけど、俺の知識の中ではこれ以上の言葉が出てこないんだよ。

また、勉強しなおしてみますよ。

人ではなく、己自身が中道なんだって思う気持ちが中道。つまり、我が道を行けっていうことだよ。とりあえずね!とりあえずだよ。妥協するとね。

すると、次が徐々に見えてくるはずだよ。

中道っていうのは一種の哲学の話だからね。

答えがあるわけがないんだよ。

自分がツイートをみて気になったのが、右と左の存在があって、私はその真ん中を歩くんだっていうのが多いので、それが違うんじゃないかって言いたかったんだ。

右と左の存在を認めることになる。

知らないうちに現実世界に入って行っているから、それでは中道にはならず、現実世界に引き戻されちゃうよ。

そこの部分なんだ。

左でない、右でない、真ん中なんだ~、右もない、左もない、私は私自身なんだ~って歩ていくのを今のところは中道っていう事にしましょうか。

それから、また自分の成長に伴って中道の解釈もより高度になっていくでしょう。

とりあえず、そういうことにしておきましょう。

昔は1つの言葉を発すると、受け取り側が含みや広がりを感じ取って理解してくれるんだけど、近代は多弁にならないと、狭まった言葉としてしか受けとらえない相手がいると、色んな言葉を言わないとダメになっているよね。

昔は、一つの言葉で、すごく沢山の意味を受け取れたんだろう。

今は言葉のお遊びみたいなものが出てきたのがSNSなんだろう。言葉を発しないと理解できないって言うのは、低くなっているんだろう。

だから、テレパシーなんだよ。

テレパシーって感じるものだから、たとえばあとうの2文字を使っただけで、相手に広い意味で伝わるんだと思う。そこに自分の想いを乗せて相手に伝えるのがテレパシーだと思う。

言語っていうのは、心を乗せるのがなかなかできないんだよね。

本来心を乗せたいんだけど、そこで作家が出てくるんだろうな~。

たまーに、作家さんで気持ちが伝わってくる文章があるんだけど、なかなかその分に巡り合うっていうのは至難だよ。

なかなかそれだけの達筆な人はあんまり現れてないな~。

そこで中国の漢詩に興味を持ったんだよ。漢詩の中に伝わるものがあるんだろうか。

漢詩は漢字5文字の間に情景を入れちゃうわけだから。

例えば、四面楚歌ってみんな知っているものあるけれど、これは周り全部から、楚国という歌がある、それが聞こえてきたと。でもそれは現代の直訳だと思う。

その中に想像力がさらに広がっていくんだよね。

ただ単に楚の歌が聞こえてきたじゃなく、悲しみや滅亡など、他の言葉みたいなのがポロンと出てくるのが漢詩にはあるよね。

それが俺流の他の言葉の気持ちを乗せるっていうことなのかなって思うけれど、今のところは日本語よりも漢詩の方が上なのかな~ってイメージを持っている。

上というのは、よりテレパシーの言語に近いのかな~って思っている。

自分が言語のすばらしさの基準はテレパシーに置いている。

よりテレパシーに近い言語はどれなんだろうって考えている。

すると、北京語がなかなかするどい線があるんだよな。

北京語のいいところは世界一綺麗な発音でしゃべる言葉なんだと思う。

この綺麗っていうのは言語においてポイントになってくるんじゃないかな。

言葉は音だからね。

結構言葉っていうのはね、聖書でもこだわっているよね。

バビロンがどうのこうのの時に、言語を別れさせたとかね。それから一番最初に言葉があったとか。

聖書では言葉っていうのを重要視しているっていうか、ポイントにしているよね。

言葉というのはひとつの音楽っぽいものだと思うんだよね。

言葉を発すると、音を発するから、自分たち日本人も言葉の使い方話し方っていうのはとっても重要視してない?

汚い言葉を使っちゃいけないよ、とか。

語気が強いと、荒々しい言葉とか。

同じ言葉でも、トーンを変えるだけで、意味合いがすごくかわってくるわけだからさ。

典型的に言うのは、子どもが分かったよっていうと、親は分かってないよねって。

そのトーンが分かったって言ってないわけ。

知らないうちに、子どもに言葉と言うのは音が重要なんだよって小さい時から知らずに教えているんだろうね。

言い方っていうより、音だよね。

そういう面では北京語をぜひとも聞いてみてください。

すごく綺麗。

飛行機から降りる時に、最後にザイツェーンって言うんだけど、あれがすごい綺麗なんだよね~。

自分が言いたくても言えないんだよね。

歌でも歌っているの?って聞こえて、きれいじゃないお姉ちゃんがきれいに見えちゃってさ。

本当に言葉一つで女の人の顔って変わるからね。

そういう意味ではツイッターも、言葉一つで、顔は見えてないけれど、その人の顔が見えるんだよね。

たとえ、荒っぽく書いても、この人いいなーって人結構いるんだよね。

逆に荒っぽく書いている人の方がいい顔しているのかなーって感じがする。

あまりにも綺麗な言葉を使うと、違和感がでたり、普段この言葉使ってるの?これはツイッター上だけじゃないの?っていう文章も見受けられるよね。

だから、半分ツイッターが嫌になったのは、今言った部分なんだよね。

ツイッター用の言葉で、なんか言っている人多いよなーって。

実際に会ったら全然違うんだろうなーって。

文章ってあんまり信用できないよなーって思う。

ふくろうさんの文章の書き方って言うのは、話しているんだよ。

書いているんじゃなくて、マリがそのまま書き留めているから、文章じゃなくて、会話なんだよね。

だから、みんなも俺の記事に関してん?って思うのは、2人で作業しているから。

何しろパンを焼きながらしゃべっているから、酷いもんだよ。笑。

だから、最後はとりとめもなく、どこでまとめたらいいのか分からない文章になっちゃうんだよね。

でもこんなブログがあっても面白いのかなって思う。

他のブログみると、感心するくらいよく調べて、起承転結にして、決まり通りまとめているよね。

点の打ち方、行間の開け方、文字の一段下げるやり方、言葉だよね。

こういうものが非常に皆さん知的だな~って思いうよ。

そういう面ではふくろうさんは全然知的じゃないよね。

知的嫌いなんで、人間味あふれるものが大好きなんで、自分自ら実践してます。

知的な文章って俺から言わせればつまんないんだよね~。

マリ
マリ

ふくろうさんの場合は、文章じゃなくて、会話だからね。

 

よりふくろうさんらしさが伝わるのは、ラジオが合っているかもね~。

 

とりとめもない感じになっちゃいましたが、終わります。